昭和47年10月19日 朝の御理解



 御理解 第32節
 「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。」

 教祖様が、このように表現しておられる。そのような情景を思うただけでも、信心者の姿が有難いものだと思います。「裏の畑に行って、大根一本取って来い」ち言うようなもんじゃないですね。兎に角、畑に入る時から、拝むような気持ち。大地を拝むような気持ち。おかげで、こんなに立派に、お野菜が育ちましたと。その大根なら大根を、引きます時に、拝むような姿勢。それを拝むような心の状態をもって頂く。私は、これは金光様の信心の姿であり、又は姿勢だと思うです。
 しかも、それを煮て食する時、神様、頂戴致しますと、神様いただきますと言う心あらば当る事なし。お野菜一本でも、お魚一匹でも、全てのものが、この調子というもの。この姿勢をもって頂くという事。この姿勢をもって食するという事。それが血にならないはずはない。肉にならないはずはない。障るどころではない。それが、御徳にならないはずはないと、私は思います。これが形だけで、そうするというのじゃなくて、抜くというような心になればとおっしゃるのである。
 形じゃなくて、そういう心が、自ずと、大地を拝み、お野菜を拝みという姿になる。そういう心になるという事です。そういう心になれば、おかげがあると仰っておられる。それを煮て食する時、本当に心から、神様いただきます。いや頂きますだけではない。どうぞ、これが私の肉になり血になり、これが体を、かえって、害する様な事のないような、おかげを頂きますようにという祈りを込めて食する。そういう心あらば当る事なし。そういう心なんです。そういう心になればおかげがある。
 そういう心あらば当る事なし。当る事なしという事は、その事によって、難儀になるという事はない。困った事になるという事はないという事です。そこんところを、繰り返し繰り返し体験させてもらい。場合には、当る事があったに致しましても、それがおかげがあるとおっしゃるけれども、おかげにならない場合がありましても。これはまぁだ自分の信心が足りぬからと。まだまだ大地を拝むような心になっていないというところを、極めに極めていく。
 その事柄を、又は、その食べ物をです。食する時に、神様いただきますという心。合掌して受けるという心。合掌して受けるという心になれば、それは決して当る事ない。今日は、そこのね、抜くというような心になればとか、神様いただきますというような心あらば当る事なし。その心あらば、または、心になればというところを、強調しながら、お話を聞いて頂きたいと思う。
 ですから、女がという事は、信心者がという風に、ここでは頂きたいですね。女に限った事ではない。男なら黙って大根抜いて来てもよかという事はない。俺が作ったっちゃから俺が取って来ると。女が菜園に出てというところは、信心者がです。菜園に出てというのは、お互いの生活の現場に於てという事である。お互いの、日々、生活の現場に立ち向かった時、様々な問題がある。本当に難儀と思われるような事に直面する。
 先日、椛目の宮崎さんが、久し振りで参ってみえて、長男の病気の事をお願いされた。此の頃信心が少したるんどりますから、こういうお気付けを頂いて、どうぞおかげ頂きますようにという事でしたから。本当にたるんでおる事を、私が指摘して、御本部参拝によって頂いて参りました、あの提灯の御理解をさせて頂いた。信心はしておる、言うならば、ローソクに火は灯っておる。風でゆらゆら今にも消えそうにある。
 そこで引き上げなければ、そういうお気付を頂いた時には、提灯を上に、こうやって引き上げなければ、信心を引き立てる。おかげを頂ければ、消える事がない。おかげが頂けれる訳です。そういうお願いにみえた当の息子さんが、久留米迄やらして頂いて、自動車事故を起した。相手の人の新車の車に衝突した。自分のところは、あんまり、そでなかったけれども。相手の車が相当痛んだ。
 また向こうに乗っておった、二、三人の人も、まぁ大した怪我ではなかったけれども、怪我をした。子供から電話がかかって来た。その時に電話を受けたお父さんか、お母さんかは知らないけれどもです。「おかげを頂いた」とこう思うた。今朝夫婦でお参りをして、子供の事でお願いさせて頂いて、そしてまだ何時間しかたたない。もし今朝夫婦でお参りをして、彼の事をお願いしていなかったら。どういう事故になっておったかも分からんというのが、咄嗟に、頭にひらめいたのです。
 「おかげを頂いた」という訳である。晩に参って来て、そういうお届けを、奥さんがなさいます。私は今日皆さんに聞いて頂いた事は、そういう場合です。菜園に行って菜を抜く時と、生活の現場に於てです。例えば、どういう問題に直面致しましても、それが、交通事故であっても、「おかげ頂いた」です。その心あらば当る事はない。そういう心あるならば、おかげがあると、神様は断言しておられる。今朝お参りしたつに、お願いして来たのに、どうしてこげな事が起ったじゃろうかと。
 言うならば、それは次に、お願いをして、おかげは頂きましても、もう心がゆらゆらしてますよね。いわゆる風で、ローソクの光が消えようとする。記念祭を迎えて、これはほんなごと俺達が、此の頃、少したるんどったばいお母さん。一つこいつは、本気で頑張らにゃいかんばい。息子さんは俊郎と言いますが、俊郎がこういう病気をするという事も、これは俺達の信心がたるんどったからばいと、こう引き上げられておった。引き上げられておったから、おかげで緩がんですんだ。
 神様いただきます。それこそその事を拝んで、合掌してそれを受ける心あれば、おかげがあるとこうおっしゃる。そういう心の状態です。ですからこれはね本気で引き上げよう。本気で修行させて頂こう。本気で信心修行でもさせて頂いておる時でないとです。そういう風に受けられないのです。けれども、これが信心修行が出来ておる時には、皆さん不思議に、どっこいという、その心が据わっておりますから。
 どのような問題であっても、それを合掌して受けるだけの心の状態と言う様なものが出来ておりますからおかげになるのです。おかげがあると断言しておられます。ですから是は女が菜園に出て、野菜を抜くという時だけではなくて、私共信心者が生活の現場で事に直面した時に、それこそその大地を拝むようにと言う様に、その事柄を神様の御働きとしてです。所謂御事柄として受けるという、信心者の合掌した姿である。
 金光様の御信心は全てがそういうです、有難い有難いで開けた道だから、この方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせんと、教祖が仰っておられる。それを信心のない信心の浅い時には、とても喜びで受けられない事でも、段々信心が分かってくると不思議に喜びで受けられるから有難い。信心の稽古というのはそうなんです。又それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば当る事なし。それで私は申しました、宮崎さんに。相手の車が七万位かかる修理に。
 こっちの車が三万位かかるだろうとこう言う。合せて十万である。それを話し合いで二人で折半して出し合おうと言う様になったと。警察に言けれども自分達でった片付けろと言う事であった。そういう事になったと言うから、ほんなお父さんやらお母さんの言う事を聞かんけん、あんたがこげな事ったいてんなんてんな、言いどん思いどんしなさいますなち。半分のその五万円出すぐらいな事は有難い事じゃ。
 最近のお粗末御無礼をです。これでお許し頂くなら、こげな有難い事はないちいうごたる気持ちで出しなさいち、私は申しました。そういう頂き方が煮て食べる時、神様いただきますという心がそういう心なんだ。本当に大難を小難でおかげを頂いた。五万円位ですむなら安い事だったと。それが安いものじゃなかったに致しましてもです。神様はどうでも五万円なら五万円と言う金を、宮崎家から取り上げなさらなければ、宮崎の家が立たないことがあるんです。
 そこでお互いここは一つ分からなければならない事は、交通事故やらでガバッとお金を取られたり、病院に行って苦い薬を飲んだり、痛い注射をしてもろうてから、そしてお金を払わなければならなかったりする様なことであっては、馬鹿らしいじゃないか。だから、それをです、有難い事に使わせて頂く。例えば体の調子と言うものがです。食べることばっかり食べとって、出すものを出さなかったら、どうなりましょうか。
 そりゃ出すとは、それこそ嫌いというてから、それを食べるだけ食べといてから、出そうともしないなら、体は必ず変調が起って来ます。秘結をする訳です。ですからそういう状態を、神様は見ておられなさらんから。こりゃ浣腸でもしてから出してやらねばという様な事ではなかろうかと思う。神様のそういう思いを分からせて頂いたら、本当に日頃の信心のお粗末御無礼をお詫びさせて頂いて、出させて頂くようなもの。
 だから痛い思いやら、苦い思いやらをして、出さねばならんのは実を言うたら、馬鹿らしい話だから。常日頃順調に頂いたら出す、頂いたら出すと言う、こういう信心をさせて頂くからこそ、自分の体が順調に、結構なお通じを頂く事が出来ると言うこと。お通じの出来ることその事が有難い。それでも私共の場合はです。無信心になっておると、欲がかさんでおる。そして出そうごとなかごとなって来る。そうすると今度は神様が出さんでよかならよかけれども。
 それでは体が保てんと言うて、場合には、罰金になって来たり、又は医者に払わなければならない薬代になって来たり。又は子供が要らぬ事に、例えて言うならばですよ。無駄使いをしたりと言う様な事にでも出させなければ、この体が保てんのだ。そこの家がもてない。だから信心させて頂いて、有難い勿体ないで、出させて頂いておるとです。もう二十年合楽で、信心の稽古をさせて頂いておるが、未だおかげで家族中の者が、一遍も医者の薬を飲みませんと言う例は、沢山あるでしょう合楽で。
 例えば、久富さんにしても、原さん辺りでもそうです。薬代と言うものを、この何十年間払うた事がないと言うのじゃから。その代り有難い方へサッサッと出しよる。医者に払うのが良いか。神様に喜んで頂く様な事に祓うのが良いかと言うのである。この辺のところを、すっきり分からん時は、私が言う、それを拝んで頂くという事やら、そういう心あらばと言う。そういう心を創って行くという事にならんのです。
 神様いただきますと言うような心に、心あらば当る事なし。この辺が一寸難しい。昨夜の月次祭の御理解に、私が申しましたように。根性がなからんと、これは例えば、神様いただきますと言う心あらばと言うこと。神様いただきますという心と言うのが、根性がなければ頂けんのです。何事にでも、一つの根性という事が言われます。信心も、根性を育てて行かねばならない。
 昨夜、ここに出る前にテレビに、ほんのそこん所だけを見せて頂いたけれども。村田英雄と言ですかね。あの浪花節さん、今流行歌手ですね。が、お父さんとお母さんと、自分達夫婦とで、日本一のお母さんか何かと言った様な、テレビに出ているところです。子供の時から、このお母さんが七十幾つになられるそうですが、相方を弾いて下さる、三味線を弾きなさる。そして、子供を躾られる時に、その躾と言うのはね。それは、もう本当に厳しかった等と言うようなものじゃございませんでしたと。
 持っているバチで、頭でも何でも叩きよった。普通はバチで、膝なんかを叩きますよね、パチッとこう三味線の稽古か何かをさせて頂いて、いつまでも分からん時には、ここを叩きます。けれども、村田英雄さんの場合は、象牙のバチでね、頭を叩きよったと、子供の時から。だから、自分なこれは、ほんな親じゃあるじゃろうかと思う位に、悲しかったり、苦しかったりした事があったと。
 けれども、家の母が日本一と言うところは、そういう風に鍛えながらです。それでもやはり尚且つ、私を稽古させたと言う力には恐れ入ってしまう、日本一だと言っております。今でも、鍛えられておった事が、今日の私があると言うております。いわゆる、根性が素晴らしかったという事です。この頃から、上野先生が風邪を引いた。ちょうど、私の御本部参拝で、留守を預かっておる時に、熱がある、寒気が来る
 。体はぞごぞごするけれども。さぁ日頃の根性にものを言わせて、どんなことがあっても、親先生のお留守中に、御結界を空けるような事があってはならんと思うて、そこんところを頂き抜かせて頂いたらです。おかげで熱も下がり、寒気も取れ、平常通りのおかげを頂いた。根性なんだ。こと神様にと心を向けさせて頂いたら、学院に修行中に、さぁお母さんが亡くなられた。お父さんが亡くなられた。
 兄弟がまでも亡くなるといったような、普通で言うならば、悲惨な事であった。お父さんが先だったか、お母さんが先だったか。だから、お父さんと、兄弟が亡くなった時には、帰らなかった、御本部から。もう一旦この、体を神様へお供えさせて頂いたものを、帰ったからと、どうこういう事ではない。御霊が、それで喜ぶという事はない。私自身が本当の信心を頂くという事こそ、神様が喜んで下さる事であると同時に、御霊が喜んでくれるんだと言う、徹底した考え方なんです。
 金光様の御信心はね、ここんところに徹しなければならない。そこんところがです。やはり根性がなからんと、そういう風に頂けないと言うことです。そういう心あらばと言う事。例えば煮て食する時、それを頂く時、神様いただきますという事は、どういう事かと言うとですね。例えよし是を食べて腹がせこうが、せくまいが、ひょっとして下痢を起すかも知れない。そういう事は問題ではないと言う意味なんです。
 頂きますと言うことは。お取次を頂いてお願いを致しましたと、右になろうが左になろうが、もう親先生に御取次をお願いして、お委せしたが最後は後は、右になっても左になっても、その時点を有り難く頂きますという事なのです。そういう心あらば当る事なしです。右になればよいと思うてお願いしたら、左になった。お願いしとったばってんと言うのであったら。それは頂きますと言う事になっていない訳ですよね。頂きますと言うことは、お願いをさせて頂いて、それが右になろうが左になろうがです。
 その時点時点でその事を、神様の御神意御神慮として有難く頂きますと言う、腹というのですから。是は信心が段々進んで行かなければ、又は修行でもさせて頂いとる時でなければ頂けんのです。例えば宮崎さんの例をとって話しました。久し振りでお参りをした。久し振りと言うが子供の病気。入院しなければ分からんと言う事を聞いてあただに是はお父さん、この頃信心が緩んどるばいと言うてお参りをさせてもろうた。
 そしてお取次を頂いてお願いをして親先生から引き上げにゃんばい、ずんだれとるばいと言われてです。そこをシャンとしょうと言う事になって、それから数時間後には、その子供が事故を起した。その電話を受けた時におかげを頂いたと、こう思ったと言うのがそこんとこです。菜を抜く時に、頂きますと言う心なんです。今度その次にです。五万円という金を出さねばならんと言う時です。だからそこもやっぱり同じなんです。大難を小難で、おかげを頂いたと頂くと言う心。
 そういう心あらば当る事がない。決して、五万円が十万円出しても、宮崎家の窪みにはならんて。それを有難く頂いたら、五万円が、十万円にも二十万円にもなって、絶対返って来ると。これは私の体験から申し上げる事が出来るです。けれどもそれをほんについて行こうごとあると言うて行ったらです。それは五万円損せねばならん。だから私は、お礼に出て来た時に夫婦にですね、それこそ惜し惜しども出しなさんな。それこそ有難う、神様にお礼を申し上げて出しなさいと言うのが、それなんです。
 そういうその事を、神様いただきますと言う事になった。そういう心あらば当る事なし。今日はと言うような心になればおかげがあると頂いた。おかげの頂ける心の状態とは、今日、私が申しましたような心の状態。神様、いただきますと言う心あらば、そういう心あらばです。それは、右になろうが左になろうが。それは右になりますようにと言うてお願いしたけれども。実際は左になったとした時に、その左の事を、神様いただきますと言う心あらば、それによってたとえば、宮崎さんの例でなら。
 例え五万円出しても、五万円が宮崎家の窪みにはならんと言う事。それが困った結果にはならないと言う事。当る事なしと言う事は、それが損にはならないと言う事。金光様の御信心をさせて頂く者の、この三十二節からです、その姿勢を伺う事が出来る。金光様の御信心させて頂く者は、本当に女の方が野菜畑に出て、本当に野菜畑を拝むような心。それを抜かせて頂く時に、神様おかげでこの様な美事なお野菜がと言うて、お礼を申し上げるような心。しかもそれを持って帰って煮て食する時にです。
 神様頂きますと言うような心あらばと言う。それを大地を拝んで、野菜を頂いてしかも、それを煮て食する迄のその間がです。いつも金光様の御信心振りと言うものが、そこにある訳です姿勢が。それ今日私は、女が菜園に出ると言うところをです。これは女に限った事ではないのですから。お道の信心者であるならばです。私共お道の信心者信奉者がです。事に直面した時お互いの生活の現場で、直面したその問題を拝んで頂くと言う事を、最近は、御事柄として受けて行けと言うのはその事です。
 しかもそれはです。愈々頂く時に、頂きますと言うような心あらば、お取次を頂いてお願いをした。その答、その時点が、どのようにありましても、御取次を頂いての事であるから。神様の御神意御神慮に違いはないとして、それを頂きますという心あらば、障る事ない。それは、目の前では五万円損のようであるけれども、絶対損にはならん。そういう心あらば。と言う様にここの所では、当る事なしとか、おかげがあると断言して教えておられます。けれども私共の信心の根性というものがです。
 そういう所で育っていない所から、おかげがあると仰るのに、おかげとは思われない様な事。当る事なしと言われても、やはり当るような事もあるけれども。そこん所を、繰り返し繰り返し、神様の方には間違いがない。こちらの信心の方に間違いがあるとしてです。所謂本当な事を行じて行くという。その本当な事を行じて行く時には、場合によっては、本当に信心する者は、我武者羅だとか、もう信心する者ばかりはと、笑われるような、悪口を言われる様な事があるかも知れんけれども。
 頂くと決めたら頂くんだと。愛子先生じゃないけれどもです。頂くと決めたらもう本当に頂くという気になったら、そのつぎには熱もなければ寒気もせんと言う様なおかげになっておると言うこと。だからここには根性がいると言うこと。心あらば当る事なしそういう心あらば。簡単ですけれども実を言うたら、信心の稽古が出来とらんとそういう心にはなれない。神様頂きますと言った様な心まではなるかも知れん。今日はどげな事があったっちゃ、有難く頂くという気持ちで頂くと言うことに。
 腹を決めて信心修行させて頂きよりますと。もうその事が、叩かれてもすみませんとかね。叩かれても有難うございますという事になれる。その次に叩かれてコブが出て、そして医者にでも行かんならんと言う事になって来ると、少し心が揺らついて来る。だからその時点でも、やはり有難いとして頂けるというのですから。大抵の信心修行が出来よらんと、そういうおかげが頂けない。けれどもそういう心あらばおかげになるのであり、当る事なしというおかげが頂けるのですよね。
   どうぞ。